待ち続けたようには見えないように
何かを作り出そうとするときは、その前に一定の静けさが必要になる。
立ち止まる。
情報を遮断する。
独りになる。
熟考する。
自分と対話する。
待つ。
こういう作業って、ハッキリ言ってめんどくさい。地味すぎて、明確な意思を持ってないと簡単に日々のルーチンタスクに紛れていってしまう。
でもこの一見不毛に思われる作業をどれだけ積み重ねてきたかで、 生み出されるものの質は全然変わる。量とスピードが必要な時もあるけど、ベースは見えないものの蓄積だ。
とある写真家に質疑応答する機会があった。その方の撮る写真は、日常風景のふとした瞬間なのだけど、思わず笑ってしまうようなおかしさもありつつ、どこか切ない作品ばかりで、大好きだった。
これはどうやって撮ったのですか?これは?と矢継ぎ早に聞くも、答えは同じ。「待ったんです。」
ここのフレームの、ちょうどここらへんに人が入ってくるまで待ったんです、とか、光がこっちから入ってくるときに、人があっちから来てもらうまで待ちました、とか。フィルムだからデジタルと違って何枚も数撮るわけにはいかない。だから、ひたすら待ち続けたらしい。
好きだなあと思った。そのスタンスが。待ち続けたようには見えない作品ばかりだから、余計きゅんと来た。
私も今いくつか制作するものを抱えていて、作っては行き詰まり、作っては行き詰まりの繰り返し。人とおしゃべりしながら思いつくときもあれば、ネットや本を見てはたと気づくこともある。でも今足りないのは、静けさ。時間。待つこと。
それを丁寧に積み重ねていった先に、待ち続けたようには見えないようなものができればいいと想う。